ロシア、ウクライナの惨劇、二十歳の自分

「あまり遠くへ動かない方がいい。地雷があるかもしれないから」

「あの向こうの山で、激しい戦闘があった。死体がまだ残っていると思う」

現地の人が発した言葉から、緊張感だけは伝わった。翻訳された日本語を聞いて、さらにゾッとした。

2000年秋、二十歳の私はエリトリアにいた。

エチオピアと国境をめぐる戦争は2年に及んだ。互いの首都を空爆し、死者は10万人以上という惨劇。私がN P O活動の一員として入国したのは、停戦して半年も経たない頃だった。

国民の3人に1人が避難民。避難民キャンプ地を訪れた。輪になって一緒に踊った。砲撃を受けて、ボロボロになった校舎で懸命に学ぶ子どもたち。私たちが乗るバスを笑顔で追いかけてきた。首都アスマラは標高2300メートル。現地の中高生とのバレボール対決は、高地ゆえ息切れして惨敗した。

「こっちに来てから、うちらが元気をもらっている気がするよなぁ」と言葉をかけてくれたのは、和田有一朗さん。

当時は神戸市議会議員。兵庫県議会議員を経て、昨年11月から衆議院議員(日本維新の会)である。

帰国後、浪人中の泉健太さんにエリトリアの活動報告をする機会があった。

「僕が政治家になったら、政治家でいる限り絶対に戦争をしない国にする」と真っ直ぐな瞳で語っていた泉さん。

あの瞳、力強い声は今でも鮮明に覚えている。あらためて説明するまでもないが、現在、立憲民主党の代表。

エチオピア・エリトリア国境紛争は、ロシア(エチオピア支援)とウクライナ(エリトリア支援)の代理戦争という一面があった。それゆえ、ロシアがウクライナに侵攻して以来、エリアトリアでの活動を始め、多感なあの頃の記憶が次々と浮かび上がってきた。

エリトリアから帰国する機内で、
「日本に帰って、自分たちができることはなんだろうか」とNPOの生真面目なメンバーから尋ねられた。

私は、「知ること、話すこと、考えることかなぁ…」と絞り出すように答えることで精一杯だった。

あれから、22年。

世界のあり方はそんなに変わっていないのかもしれない。

自分自身、今できることも「知ること、話すこと、考えること…」

そんなに変わっていないのかもしれない。思わずため息が出る。

3月3日、議会の承諾を得て、市長・議長連名で抗議書を提出した。まず、できることを一つ。

「大村は自衛隊の部隊があるのだから、当事者意識を持って、想像力を働かせて考えた方がいい。隊員の皆さんの任務、ご負担が増えるはずだよ、市で取り組めることを考えるべきでは…」

あの生真面目なメンバーから、メールが来た。

抗議書の他に何ができるのか。何に備え、何を考えなければならないのか、同僚議員と意見交換を進めていきたい。私個人がすぐにできることとして、塾の生徒、教え子、インターン生たちに、私の二十歳の体験をしっかり伝えていく。

戦争という愚劣な手段ではなく、交渉、協議で解決してほしい。その一方、国家として万が一に備えた防衛体制の充実は進めていくべきだと痛感している。一日でも早く、平和的な解決がなされることを望む。

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